矢原墓地は戦国時代の成東城主成東千葉氏の子孫の墓地とされるものである。
成東千葉氏は天正18年(1590年)、秀吉の小田原平定の際、北条方として成東兵庫介将胤も参陣したが戦死、小田原落城とともに成東城も接収され、家康配下の石川康通の支配するところとなった。
この矢原の地は成東将胤の遺児源五(権七郎房胤)が旧家臣に養育され帰農した地とされ、「矢原屋敷」と称された。その後房胤の子孫が孫左衛門胤秀、国右衛門胤景、繁利親胤と代々この地に住み、墓所もここに営まれたという。現在では往時を偲ぶよすがとして貞享4年(1687年)12月19日に没した孫左衛門胤秀の墓碑が建立されているのみである。
所在地 : 山武市成東
指定日 : 1982年6月24日