安井理民は、安政6年(1859年)3月3日、成東下町の安井権兵衛の長男として生まれ、名は半蔵、後、理民と改めた。号は陽州。安井家は呉服店を営み、町きっての資産家、江戸期には「中宿」といわれ、結城藩等の諸家の役人の休泊所に利用されていた。
7歳にして安井弥平(石南)の寺子屋に通い、13歳の時に久賀村御所台(現多古町)の並木正韶(栗水)の螟蛉塾に入門した。
明治11年、19歳、姫島村戸長に就任、自宅を役場として町政を担った。
明治19年(1886年)27歳のときに鉄道創設事業を志し、東奔西走辛苦を重ね、明治22年、遂に総武鉄道株式会社を設立した。
しかし会社は、不況資金難に見舞われ、会社が再建され、県下最初に市川・佐倉間に蒸気鉄道の運行が開始されたのは、明治27年(1894年)7月20日のことであった。
その間、理民は、資金を使い果たし、病魔に侵され、鉄道運行5ヶ月前の2月16日に不帰の人となっている。35歳であった。
理民の意志を継いだ町民有志の努力により、明治30年(1897年)5月1日、本所・成東間、6月1日、成東・銚子間が開通、町民待望の成東駅の開業をみるに至ったのである。
大正2年(1913年)、成東字花咲山の安井家墓地に「陽州安井理民之墓」が建てられた。墓碑銘は、師の並木栗水撰文である。
所在地 : 山武市成東
指定日 : 1977年3月25日