千葉県成東高校野球部 九十九球友会(OB会)座談会(敬称略)
令和7年12月14日(日) 成東高校創立100周年記念館 於

【目次】
Q.1 成東高校を志望した理由は?
Q.2 成高野球現役時代の印象深い出来事
Q.3 成高野球の練習を振り返って
Q.4 特に印象に残っている試合や選手のエピソードなど
Q.5 現役および監督時代の試合で、甲子園出場を逃したときの思い
Q.6 平成元年に後輩たちが夏の甲子園大会へ初出場した時の気持ちは
Q.7 成東高校野球部に対する思いと今後に期待すること
Q.8 今後の日本の野球界に期待すること
Q.1 成東高校を志望した理由は?
長谷川「もう65年前になります。あの時代、高校進学先は地元の成東高校しか頭にありませんでした。私は成東東中学校の3期生ですが、緑海校舎に中学2年の1学期まで通いました。成東高校野球部に入った先輩が緑海校舎に来られて、キャッチボールをしていた時の『ドスン・パチン』という音に衝撃を受け魅せられました。これも進学のきっかけになりました」
荒井「当時の野球部長の古川先生から『ノブさん野球も勉強も頑張っているね。成高に行って野球やりなよ』と声をかけられ、それが嬉しくてよーしやってやるぞ、と」
土屋「物心ついた頃から野球を始め、祖父に連れられ成高の試合をよく見に行っていました。山武中の先輩が成高へ行ったこと、松戸先生の『われら夢の甲子園』を読み成高を志望しました」
二階堂「私は松戸市出身で、中学2年の時に偶然手にした松戸先生の『われら夢の甲子園』を読み、甲子園に行くことと教員になることを同時に叶えられる文武両道の素晴らしい学校があることを知りました。他校からも勧誘を受けたのですが、松井先生と長谷川先生がわざわざ松戸までいらしてくださりお二人の人間力に惹かれ成高の門をたたきました」
松井「父(元野球部長故松井衛)が成高の教員で、幼い頃から野球部の先輩方が家の風呂に入り食事をして帰るなど身近な存在で、成高へ入って野球をやることは自然の流れで、何の迷いもなかったです」
戸村「巨人の長嶋茂雄選手(佐倉高校出身)に憧れて野球を始めました。当時、県内で強かったのは成高と銚子商業。幼い頃、親に『テストで50点取れば成高に入れる?』と聞いたら『50点じゃ入れないよ』と。成高に入って野球やるんだと、一生懸命に勉強しました」
今井「父が成東高校大好きで、試合を一緒によく見にいっていました。当時、成高は千葉県の高校野球で輝かしい成績を残していました。父から『教員になったら』と勧められ『俺は教員になる。文武両道の成東高校、スポーツするなら成東高校』で志望しました」
伊藤「幼い頃から成高の試合を見ていて、鈴木孝政投手と銚子商業の根本投手の投げ合った試合は身震いしました。中学校で国語の担任だった長谷川先生の奥様に『高校へ行ったら野球やるの?』と聞かれ『やりますよ』と決意新たに志望しました」
冨川「野球を始めたのは、王・長嶋選手世代の父の影響です。10歳の時に甲子園で観戦した成高野球。その時から『高校野球は成高でやる』と決めていました」

長谷川 實

荒井 信久
Q.2 成高野球現役時代の印象深い出来事

長谷川「入学式前の春休み合宿に参加する(当時は規制なし)ほど意気込んで入部したのですが、あまりの厳しさに『勉強がついていけません』と退部を申し出ました。その後、何度も松戸先生が励ましてくださり、同期の仲間からもはっぱをかけられ、数日練習を休んだのですが退部を留まり「もう絶対に二度とそんなことは言うまい」と決意しました。昭和39年夏の甲子園出場をかけて戦った大会の初戦で連続8奪三振は当時の県記録でした。原と私の二枚投手で順当に勝ち進み、決勝戦の千葉商との試合に負けて甲子園へ行けなかったあの時の松戸先生のむせび泣きが今でも忘れられません。」
杉山「思いとどまり、今があるのですね」
荒井「中学時代は三塁手でした。練習が始まると松戸先生が毎日ノックの連続で、こんな毎日ではたまらんと(笑)。ある日、座って楽ができるバッティングキャッチャーをしていました。その姿を見て先生方は、1年先輩の鵜澤達雄投手(大洋・現横浜DeNA)が投げる剛速球と大きく曲がるスライダーを捕れるキャッチャーがいないということで1年生の秋にコンバートしたそうです。2年生になると、蓮沼中出身の鈴木孝政投手(中日)が入部して凄い球を投げてくる。『俺はこの2年間で甲子園に行けなかったら、よほど運がないぞ』と思いました。甲子園出場は果たせませんでしたが、高校野球を代表する二人のピッチャーに巡り合えて、野球の魅力を存分に感じるきっかけになりましたね」
土屋「我々の代の夏の千葉大会は、1年時はベスト8、3年時は習志野高校に決勝で負け、2年の時は千葉県高校野球で今でも語り草になっている『野球部新設校に初戦敗退』経験者です。当時、監督を務めていた長谷川先生が敗戦後、練習グラウンドに何日も来られなかったほど衝撃的な出来事でした。特に飛びぬけた選手はいませんでしたが、その敗北から皆で立ち上がり、高校最後の夏の千葉大会は決勝まで進み抜群のチームワークは自慢できることです」
杉山「私も他校の野球部でしたが、まさかあの成高が、と衝撃でした」
冨川「入学前の春休みに、後の阪神からヤンキースに入団した井川投手を擁する水戸商業が練習試合にきました。すごいボールを投げていて、これが高校野球、上に行くレベルだと印象に残っています」
Q.3 成高野球の練習を振り返って

戸村 栄利

冨川 隆博
戸村「今の現役世代が聞いたら、ビックリするような時代です(笑)。娘に『お父さんは運動しても水を飲めなかったんだよ』と話すと今では考えられないと驚かれます。ユニフォームも汗をかいたら風が通らない素材で、熱中症(日射病)寸前の毎日でした。水が飲めなかったことが一番苦しい思い出です」
二階堂「水といえば、500mlサイズの瓶に入れて、グラウンド内のあちこちに隠していたのですが、当時長谷川先生はご存じでしたか?」
長谷川「ちょっと待って(笑)。一斗樽に麦茶を入れて、グラウンドに持って行ったのは、あなたがたの代じゃなかったっけ」
皆さん「いや、ほとんどの代ですよ。長谷川先生もグラウンドの脇に麦茶を用意してくださって」
長谷川「用意したのは、自分の母ですよ」
土屋「練習中に『顔を洗ってきていい』と言ってくださいました。その瞬間が水を飲める合図でした(笑)」
荒井「自分でグラウンド内に隠した水を仲間に蹴飛ばされ無くなることもあったけど(笑)、厳しい練習の中での楽しみだった」
二階堂「あの時代はみんなやっていましたよね。知恵ですね(笑)」
長谷川「知恵を働かせるということですね。成東高校は甲子園に出たいんですよ。松戸先生と松井先生、あの時代はあと1点、あと1試合の連続で、自分はその後の監督を受け自分なりの理想や考えを持ちました。うちよりも強いチームに勝つにはそれ以上に練習をしなくてはいけない。これが根底にありました。『雨が降ったら休もう』程度の休みしか考えられなかった。今は試験休みがありますが、私はフルに解放できず、バッテリーに自主トレメニューを紙に書いて、渡しました」
土屋「長谷川先生は試験休みにご自身も休めると思いませんでしたか?」
長谷川「それはないね。そう思うようになったのは、ずっと後でした。他校へ転任してから。成東高校の時には思わなかったですね」
杉山「選手は練習を休める雨が好きですものね(笑)」
戸村「水といえば、長谷川先生が監督の時は練習が休みになる雨は降りませんでした。近くに雨雲が見えるのですが、なぜか成東高校の上空には来なかった(笑)」
松井「八街で降っていても成東には降らなかったですからね(笑)」
二階堂「当時、野球日誌をつけていました」
荒井「私も野球ノートを書いていました。私の高校3年間は永田先生が監督で、松戸先生が部長、松井先生と長谷川先生が顧問でした。永田先生はサーキット・ウエイトトレーニングを取り入れていましたが、このようなトレーニングは私が社会人野球時代の途中から流行り出したことです。考えてみると成東高校野球部は早くから本当に凄い練習を導入していたのだなと思います」

冨川「約30年前、私が現役生の頃、土屋先生が指導者の頃から練習中に『水を飲みなさい』に変わり始めました。運動部全体に浸透はしていなかったのですが、野球部は水を飲めた。ありがたかったですね。でも冷たい水は体に悪いということで、真夏でも常温でした」
松井「私は、練習が始まるときに今日は辛いなと思うとブルペンに逃げていました。ブルペンはキャッチャーの仕事場でしたので、ピッチャーをたくさん呼んで投げさせていました」
杉山「練習試合で大敗して走って帰れ、などありましたか?」
同期皆さん「はい。走って帰ってきて、ひたすらノックがありましたね。長谷川先生はノックが大好きで」
土屋「走って帰れば終了と思っていたら、終わらないという(笑)」
Q.4 特に印象に残っている試合や選手のエピソードなど
長谷川「少し横道にそれますが、座談会に昭和56年卒業生が多いのは何故か、土屋さんから説明があるそうです」
土屋「杉山さんから『山武市出身で座談会を行いたい』とお話をいただいて、当時、今の山武市から何人来ていたんだろうと思い起こしてみたら、昭和56年卒には松井さん、正昭さん、今井さんもそう、成東中、成東東中がいて、ひでちゃんもいて、そんなにいたんだねと。当時は、寮もあり、色んな地域から、松戸から、千葉市から、茂原からと寮に入っていた選手もたくさんいたのですが、地元からもこんなにいた。地元出身のメンバーがこれだけ残るほど、当時の野球熱は高かったですね」「成東高校の吸引力がこれだけ惹きつける魅力があったんだと思いますね。冨川さんの時はどう?」
冨川「自分の時は15人しかいなかったのですが、全学年だいたい20人くらいが平均的だったように思います」
長谷川「平成時代は結構、野球部員数は多いですよ。私が現役の頃、初めて松戸監督が県外遠征を組んでくれました。汽車で上野まで出て常磐線で水戸へ向かい、水戸商と対戦しました。水戸商のグランドで相手はバッティング練習をしていました。外野オーバーのバッティングに、成高の我々はポカーンとしばらく口を開けて見ていました。でも、いざ試合になると、長谷川投手が頑張ってしまいましてね(笑)。1対0で完封したのです。これが最後の夏の大会に向けての出発点。この試合で、ある程度自信を持てたかなと思いますね。強豪水戸商を1対0で完封したことが高校時代の一番の思い出ですね。監督の時代は先ほど話題に出た昭和54年の第61回夏の大会。7対9で新設校にまさかの1回戦負けです。この歳になってもまだ話題に出るのですよ。私は、あの試合で監督として冷静に自分の頭と心が整理されていたかどうか、それすら見失いました。あの時、生徒たちはどんな気持ちだったのだろうかと、ハっとしました。私は生徒たちにどんな言葉をかけてやれたのか?そのことさえもはっきりと思い出せないのです。生徒たちの気持ちになってやれなかったこと、今なお悔やんでいます。この時、千葉市から野球部に入ってきた長身でサウスポーの織田篤彦投手。キャッチャーは小柄ではあるが強肩の藍芳治選手。織田くんと藍くんの大型バッテリーを夢見ましてね。これでしっかりバッテリーを作れば、と計算をしたのですが、厳しさだけで彼らに接してしまいました」
土屋「あの時、成高へ指導に来てくださった明治大の大野さんと栗林さん。栗林さんは文武両道の名門私立校出身でしたが、母校に戻られた時に『同じ高校生で、公立高校でこんなにも練習をやっているところがあるんだ』と激を飛ばしたそうです」
長谷川「伝説の初戦敗退は、往復ビンタをくらった思いでしたね。理想とするチーム像を描くのですが、各選手への具体的で丁寧な指導が足らなかった」
杉山「それだけショックも大きかったということですよね」
長谷川「そうですね。昭和40年、50年代は成東高校の1回戦負けは許されない、と自分たちも地域も後援会もみんなそう思っていましたからね。でもあの初戦敗退から彼らは本当によくやりました。翌年、昭和55年夏の千葉大会。この大会は、3回戦で負けたら監督の任を降りようと決意して臨みました。その3回戦の市原緑高校戦で、ランナー2塁3塁の大ピンチに大きな当たりをセンター戸村が背走に背走して飛びついて捕ったのです。このプレーは大きかった。その後の対戦は負ける気がしなかったですね」
二階堂「負ける気がしないというか、負けられない思いでしたね。準々決勝千葉商業との試合も苦しかったですね」
長谷川「相手のボークで1点もらって勝って準決勝に進みました。試合を勝ち進んでいくと、私が何か言わなくとも彼らは一人ひとりがよく考えて頑張ってくれたのです。ただ一つ、決勝で負けたことは後悔しています。あえて名前を挙げると、エースの伊藤公治くんをちゃんと見ていなかった。これが非常に悔やまれてですね、勝った勝った勝った、で来てしまい、これ連投だよね。連投で調子を落としているのを見つけてやれなかった・・本当に後悔しています。伊藤投手は新人チームになった時に外野手からコンバートしたピッチャーで、絆創膏で小指と薬指二本の指を折り曲げて。6月に250、300球と投げさせるわけですから、今思うと本当にもう監督失格ですね。でも、練習で絶妙なコントロールをつけていった。素晴らしいコントロールでした。良いことも悪いことも思い出してしまいます・・もう一人、甲子園出場投手の押尾くんを成東に取って良かった。彼は学業成績も抜群で、成績の良い子どもたちを成東高校から外に出してはいけないという気持ちが私にありまして、極端に言うと毎日、押尾くんの元に通いました。他にも私立高校がたくさん勧誘にきていましたが、押尾くんは中学3年の正月に成東高校へ来ることを決心してくれました。甲子園出場を実現した時は、押尾くんを取って本当に良かったと素直に思いました」
二階堂「初戦敗退後、勝浦へ遠征に行きました。練習試合の連続で負けたら優勝はないぞ、という雰囲気の中、サヨナラ負けをしたのです。長谷川先生は烈火のごとく怒り、延々とグラウンドダッシュの指令が。いつになったら終わるのだろうと・・長谷川先生、覚えていらっしゃいますか?(笑)」
長谷川「覚えていますよ(笑)。あの時の勝浦の監督さんが未だに私に言うのです『俺よりもオッかない先生がいた』と」
二階堂「負けてはいけないという状況の中で、修学旅行から1週間後に秋の大会を控えて、我々は『修学旅行に行かない』という選択をしました。午前中は学校の図書館で勉強をして、午後1時から8時まで練習。すごい練習でした。これだけやったのですが、秋は結局、予選で負けてしまって」
長谷川「もっといい話はない?(笑)」
二階堂「翌年春は結果が出ましたね」
土屋「このチームで一つ覚えているのは、春に習志野高校と対戦して3対3の日没引き分け試合です。延長12回に、ツーアウト3塁で、私が長谷川監督をずっと見ていて、これ流石にサイン無しで走って失敗したら目も当てられない。長谷川監督がサインを出してくれないかなあと思っていました」
長谷川「相手投手はでっかいフォームでね。やっちゃえばよかった(笑)」
土屋「成功すればいいですが、失敗したらバカヤローになってしまう(笑)。自分が監督時代のお話を。プロ野球のジャイアンツに行った安原投手の中央学院を相手に、延長18回で勝ったのは成東高校」
伊藤「練習の中でも色んな大変な場面を一緒に共有しました。冬合宿で一番の思い出は、一日の練習の最後、陽も暮れた頃、作田川と木戸川間の砂浜を往復した走り込みは自分との闘いでした。お腹ペコペコで戻ると、先生方が肉まんを手に待っていてくれて。すごく美味しかった思い出です(笑)。二階堂さんは、海水飲んでしまい、苦しかったですよね」
二階堂「宿舎の浪川荘さんの階段が上がれず降りられもしないので、這っていました(笑)」
伊藤「ところで長谷川先生は、四国の高校に視察へ行かれましたよね?」
長谷川「四国の野球を見に行こうと高松商業など、ちょっと勉強してきました」
土屋「私も成高に教員として来た年に、四国の尽誠学園や松山商業、宇和島東などに行きました」
今井「皆、長谷川先生の教えを貫いて続いているんですよね。私以外の昭和56年卒メンバーは真面目ですよ。高校野球の監督をやって、色んなところに修行に行った話も聞きました。熱いですよね」
松井「本当に、皆さん熱いですよね。社会に出たらもう勉強しなくてもいいのかな、なんて、ちょっと思ってしまいますが、皆さんは常に勉強している。野球の技術面もそうですけど、生徒たちの心を知ろうということを常に考えていらっしゃる。すごいと思います。やっぱり長谷川先生を見ていたのかなと思います」

伊藤 正昭

今井 宏明
Q.5 現役および監督時代の試合で、甲子園出場を逃したときの思い
長谷川「甲子園出場を逃した時の気持ちは、現役選手の時も決勝で敗れて甲子園を逃しましたけど、監督をしている時の方の思いが強いです。一言で言うと『甲子園は遠いな』と率直に思いました。あれだけ練習をやってきても足らない。後悔、反省の気持ちが次から次へ出てきてしまいましたね。今日、ここにいる皆さんを決勝で力及ばず甲子園に連れていけなかった。連れていけなかったという言葉を使わせてもらいますね。まず思ったのは、私どもは前年の1回戦で負けました。でも、習志野は前年も決勝で敗れ、あと1つ勝てば甲子園。習志野と我々との差は何だったんだと色々考えてしまいます。トントン勝ちに乗っかっていたんだけど、準決勝、決勝まで来たんだという気持ちがどこかに生まれてしまったんだね。決勝戦が始まる前、天台球場の内外野が人であふれているんですね。観客がたくさん入って、それを見上げて私はあなたたちに『見てみろ。こんなに応援にきてくれているんだ。やってやろうじゃないか』と言ったかね。満員のスタンドをみて、どこかに心のスキがあったんだと試合が終わった後に後悔ばかりしていました」
松井「あの時は、試合前のシートノックで、いざ成東がグラウンドに出て行ったら、あまりの観客の多さに『うわっ』となり、シートノックではポロポロとボールをこぼしていました。ちょっと舞い上がっていたんだと思います」
荒井「私が3年生の時は準決勝で対戦した竜ケ崎一高が最後の試合で、1対2で結局やぶれてしまいました。ただ、成高は千葉県の中で力はあるというのは在学時代ずっと感じていました。でもやはり勝負事で、いろんな意味で突破できるだけの力が無かったんだなと今でもそう思っています。そのせいか、その先行って野球をやりたいなという気持ちが非常にありました。敗戦があったから、そういう気持ちになれたのかもしれませんね。甲子園に行っていたらバラ色で、多分、先でも野球やろうという思いにならなかったかもしれません。本当にそれぐらい高校時代は一生懸命にやったなと。それから、成長させていただいたけど何かが足らなかったな、とそんな感じです」
土屋「我々が現役時代を振り返ると甲子園に出るっていうよりも、負けられない意識が強かったですね。だからある意味昭和55年夏の県大会で、ベスト8に残った時にすごく気持ちが楽になったんですね。なにか責任を果たした、そんな気持ちがありました。で、準々決勝、準決勝と意外に力が抜けていった。いざ、決勝になったら甲子園がみえちゃったわけですよね。ここに負けないで良かったなという気持ちがどちらかというと強くて、どうしても勝つぞという気持ちになれなかったところがありました。だから、前年決勝で負けた習志野は甲子園しか考えていない、そのチームと、やっとここまで来たぞというチームの意識の差は結果以上に出てしまった。もしかしたらもっとやれたのかなと後で思いますけれど、やっとここまで来れたの思いが先立ってしまいました。では私が監督になってからどうかというと、やっと結果が出始めたのは、ここにいる冨川さんの頃。生徒たちは賢くて、思考力があったので、こちらがああしろこうしろと言わないで彼らに預けようと思いました。預けようと思ってから、1点差を勝てるようにしぶとくなっていった。でも残念ながら甲子園という場所はやはりもう一つ上の世界なんですね。常総学院や横浜高校との練習試合も忘れられません」

松井 真

土屋 宇広
Q.6 平成元年に後輩たちが夏の甲子園大会へ初出場した時の気持ちは
松井「私が幼い頃は自宅近くに野球部の先輩方がたくさん住んでいましたので、夏の大会前は一家総出でした。家の前に大型バスが来て、母と祖母が握ったおにぎりを持って先輩方が試合に行きました。甲子園に出たときは祖父も祖母も亡くなっていましたけれど、家族の顔が浮かんできました。親父(松井衛)はもちろん、ホッとしたでしょうけど、お袋もすごく喜んだんだろうなと思います。うちの家族は私を除いて、甲子園へ応援に行っているんです。本当にあの時は『松井家でホッとした』というのが第一印象です」
伊藤「甲子園のレフトスタンドで観戦したのですが、すごく感動しましたね」
今井「私はようやく来る時が来たと。甲子園に行くのは待ち遠しかったですね。あの甲子園の球場でプレーをする後輩の雄姿をみて、少し自分を重ねた部分がありましたね」
荒井「私は当時、神戸にいて社会人野球の監督をやっていました。1回戦、智辯和歌山に勝った試合の様子をみたら、やっぱり押尾くんのマウンドでの太々しさというか。これは成東の歴代ピッチャーの中でもちょっとない雰囲気で。決して球がむちゃくちゃ速いわけではないのですが、カーブなど変化球を上手に使って、相手の芯をうまくついて球を投げる。もちろん体も、よい体をしていましたから、そういうのがないとやっぱり一番にはなれないよね。ピッチングが正直じゃないというか、そういうものをものすごく感じました。甲子園球場の真ん中から半分以上が成東の応援で、よく関西の監督さんたちにからかわれたのですが、甲子園で同窓会をやっているんじゃないかと。私もバックネット裏近くで試合を観戦して、本当に良い試合をみせていただいたなと思っています。これは長谷川先生がうまく導きだされて、何とも言えない本当に喜びになりました」
長谷川「甲子園出場を決めた千葉大会決勝戦は、最後の三振、四番バッターをカーブでしょ。ストンと落ちる大きなカーブで押尾投手が三振を取った。正直言いますとですね『なんだ、甲子園はこんなに近いのか』そう思いました。しばらく言葉が出ませんでしたね。ポカーンとしていたのかな。そしたら周りがね、私を小突くんですね、おめでとうと。しばらくしてようやく少し頭が動いてきましたね。『俺が連れていくんだよ。俺が連れていくはずだったんだよ』という気持ちがね。やっぱり正直言うと、出てしまいましたね。でも素直に押尾投手の活躍を自画自賛していました。よくやったな、お前、本当に本当に甲子園へ連れて行ってくれるんだなと思いました。彼が中学3年の時に彼にかけた言葉を直ぐに思い浮かべました。今の現役選手たちも忘れないで。やっぱり甲子園というものを忘れないで、やっていってほしいですね」
杉山「長谷川先生が押尾投手を勧誘しなければ、なかった優勝ですものね。本当にそれが一番大きいのではないでしょうか」
土屋「私は前任の千城台高校にいました。優勝を決めた瞬間は夢のようでしたし、ついに来たという思いとやっと行けるという色んな思いがありました。私からは色んな方から聞いた押尾投手の秘話を一つだけ。『押尾は堂々としたマウンドさばきから、周囲の目には図太い人間に映るのだろうけど、実はそうではない。あいつは試合前、行きのバスでブルブル震えている。そこで必死に自分と闘って、心の整理をしていたのでは。あれだけマウンド上で堂々と図太くみえる人間が中身はそうではない』という秘話を聞きました」
杉山「押尾投手はクレバーな選手だったのですね」
土屋「また、押尾投手は準決勝で習志野打線に捕まり、ベンチに帰ってきて田中部長に『これでわかりました』と打順一巡で相手を分析し、そこから先を抑えた。本当にすごい選手でした」
二階堂「決勝戦はテレビで断片的にみました。船橋法典高校に着任し2年目で、成東高校が勝った瞬間に船橋の生徒たちの前で涙を流して喜びました。家族は成東駅発の甲子園行の臨時電車で応援に向かいました。当時、成東発の電車が出たことは本当にすごかった。スポーツ新聞のコラム欄に阿久悠さんだったと思いますが、高校野球の原点をみた、という記事が記載されていた」
戸村「甲子園を決めた試合は3塁側の内野席で観戦しました。相手の4番バッターを押尾投手が空振り三振に取った時は、嬉しくて気が狂ったように騒いでいました。本当に勝ったんだなと。この時の千葉県大会では、歴代の先輩方が負けてきたチームにほとんど勝って甲子園の切符を手にしたんです。銚子商業、東海大浦安、習志野をことごとく破り、最後に新鋭高の拓大紅陵に勝って。それを全部押さえて甲子園出場を果たしてくれたので、余計に嬉しかった」
冨川「私はこの時まだ小学生で、甲子園出場は成東高校を目指すきっかけになりました。1回戦は応援バスで甲子園に行き、2回戦の応援は応援バスと電車は予約がいっぱいで取れず、飛行機で大阪まで行き、帰りは新幹線で。生まれて初めての飛行機搭乗と新幹線乗車が成東高校の甲子園応援で、貴重な体験でした」
杉山「成東高校の甲子園出場は、山武郡市全体が盛り上がり、物凄いフィーバーが起きたことを覚えています」

杉山 清(進行:山武市野球連盟会長)

二階堂 克行
Q.7 成東高校野球部に対する思いと今後に期待すること
長谷川「いつの時代も同じだと思います。各自が好きで始めた野球、チーム一丸となること、同じ目標に向かい切磋琢磨しあうことを忘れるなと。自主自律を重んじるということが昨今言われてもちろんそれも大切だが、私はそこへ行くまでの選手への接し方、『指導』ですね。選手に接近してコミュニケーションを取りながら、そして、目指すべき方向づけをしてあげる。指導者、スタッフは選手との結びつきを重視していただきたいと思います」
荒井「今、九十九球友会(OB会)の会長を仰せつかっています。今、部員は31名。部員11名で甲子園旋風を巻き起こすところもあったり。なんといっても甲子園を目指し続ける、そういった姿勢の中で、ぜひ頑張っていただけたらと思う。二度目の甲子園出場を目指し、とことん打ち込んでください。必ずそこから見つかるものがあり、人としての成長があると思います。OB会として全面的にバックアップしていきます」
土屋「自分が監督をやっている時も、毎年、甲子園を目指してやってきました。先ずは1回、ある程度の結果を残すことが大切に思います。現監督の渡慶次さんは、私が監督時代の教え子で将来は監督をやってほしいと思っていました」
二階堂「成東高校の監督はいかに大変でプレッシャーがかかり、時には私生活を犠牲にすることもあり、そういった中で高校野球にかける思い。先ずは夏の大会で1つ勝ってほしいです。夏の県大会の1勝というのがどれだけ重いものか。1勝するために、365日一生懸命に頑張っている。何とか勝ってほしいと思います」
戸村「将来的に生徒数も少なくなり学校の統廃合も予想される中で、公立高校の野球部が存続していってほしい思いがまず先にある。他の学校がやっていないこと、昭和の時代の人たちがやっていなかったこと、例えば、練習中に笑ってはいけないということが昭和時代にはありましたが、楽しくやることも大事ではないでしょうか」


松井「甲子園はもちろんのこと、熱くなって一生懸命、部活動に励んでほしい。さらにそれを大学などでも継続してほしい。野球を成東高校だけで終わりにするのではなく、生涯スポーツとして継続してそれを地域に還元する。そういう取り組みも大切に思います」
伊藤「私も継続してほしいと思います。この地域の皆さんは、すごく成東高校野球部を応援してくださり注目しています。地域の皆さんに愛され誇りに思っていただけるような存在として、野球を続けてまたこの地域に戻ってきてほしいです。坊主頭から長髪OKになりましたけど、雰囲気ですぐに野球部員とわかりますから、やはり常に注目はされていると思います。マナーを守り「野球部員である前に学生であれ」を大切にしてほしい」
今井「だんだんと私立校の方が甲子園に出場する機会が多くなり、公立高校は部員が集まりにくという現実もありますが、『自分もできるかもしれない、やってみたいな』と思えるように、先に、野球を経験した世代がどう伝えていったらいいものか・・。野球に携わったものとして、子どもたちが『自分もできる』という気持ちになれるよう野球の未来を支える一人になりたいと思います」
冨川「少子化による、私立校との競合で公立校は厳しい状況に感じます。甲子園を目標にする県内高校野球部の数は160ほどある中で、大半が甲子園の土を踏めず終わってしまいますが、一つのことに努力し続けることは後に必ず生きると思います」



Q.8 今後の日本の野球界に期待すること
荒井「成東高校の魅力、特色は勉強も野球も、文武両道です。これから高校野球を目指す中学生に全面的にPRして野球部に入部してもらえたらと。これは大事なことと改めて思います。そういう野球部になることを望みます。メジャーリーグも身近になり、昼夜野球観戦ができる状況に変わりました。良い選手がたくさんいます。日本だけに留まらず、世界に出て、野球の魅力をどんどん発信して、野球のすばらしさを広めていただけたら」
長谷川「野球人口の底辺拡大に目を向けなくてはいけないと思います。今は、中学校の部活動を地域に委ねる方向へ変わってきていますね。学校だけの力でなく、地域を取りまとめる市や教育委員会ともっと連携して、野球に限らず子どもたちの好きなスポーツを盛り上げていくにはどうしたらよいかを考えていかなくてはと思います」
今井「段々と中学生もシニアやボーイズに入る子が増えています。長らくこの形態が続いているのも事実です」
杉山「軟式野球で、部活をやっている子が部活のない時でもできる体制を整えて始めます。受け皿がないといけませんので」
二階堂「高野連に届け出をすれば、高校生が少年野球、小学生のところに行って指導できます」
今井「その門戸をゆるくしていただきたいなと」
二階堂「野球を好きな子どもたちが増えることが大切に思います」
土屋「中学校の部活動の数が本当に少なくなり、気楽に野球をやりたいなという子が野球をできなくなってしまう。シニアなどに連れていける親でないと、野球ができなくなってくる。この状況は一つの課題に思います」
伊藤「簡単に参加できる野球塾みたいなものが地域にあったら良いですね」
松井「地元出身のプロ野球選手との触れ合い、野球をやりたいという子も出てくるのではないでしょうか。プロ野球選手には、子どもたちに憧れを持たせてもらえるような活動を期待したいですね」
長谷川「そうですね、山武市出身のプロ野球の田宮裕涼選手、陸上の篠原倖太朗選手など、若い現役選手と子どもたちの触れ合い、そういう機会が増えてほしいですね」
戸村「憧れは大事と思います。握手しただけでも違いますから。日本の野球が永遠に続くような国であり地域であってほしい」
冨川「昔に比べると色んな野球の続け方、選択肢があるので、たくさんの人に野球をやっていただけたらと思います」

成東高校野球場に建立
野口正蔵氏
成東高校第12代校長(昭和33年~39年)

朝日新聞千葉版朝刊に掲載された「広報さんむ」令和8年5月5日

第108回全国高等学校野球選手権千葉大会壮行会(令和8年6月28日)
