文化財・歴史

大高善兵衛の墓

大高善兵衛の墓

 大高善兵衛は、文政5(1822)年9月2日、代々善兵衛を襲名する大高家の総本家、秀明(東園)の次男として生まれました。
幕末期の大高家は、富田村他11ヶ村組合村の寄場名主であり、酒造業、山林業を営む九十九里地方きっての資産家でした。
天保14(1843)年、22歳にして名主職を継ぎます。名は秀知、道齋と号しました。
当時この地域には、凶作・貧困による「間引き」の悪習がありました。善兵衛はこの悪弊を改めるために、幕府に間引きの禁止や小児教育の必要性を訴える嘆願書を再三にわたって提出し、自らは私財を投じて捨て子の教育に専念し、農民に対しては間引き撲滅を説いてまわりました。
 慶応3(1867)年、46歳の時に総本家を弟信蔵に譲り「隠宅」を構えて保蔵と改名します。
隠居後も、間引きの原因は、母乳不足と貧困にあると考え、世に先駆けて乳牛の研究に着手、望意谷に「常磐牧」を作って牧畜業を興し、養育のための牛乳を確保しました。嬰児救済事業に専念して、生涯に養育した孤児の数は百数十名に及ぶとも伝えられ、社会福祉事業の先駆者として高い評価を受けています。
 他に、貧困解消のための殖産興業も行い、植林、製茶、養蚕、漆、イチジクの栽培等の新事業にも取り組み、天然痘・コレラ等の伝染病予防の衛生事業にも貢献しています。
 そして明治27(1894)年3月12日亡くなりました。享年73歳でした。

所在地 : 山武市富田
指定日 : 1992年1月24日

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