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観光

伊藤左千夫ゆかりの地

歌人伊藤左千夫は、元治元年(1864年)8月18日、上総国武射郡殿台村18番屋敷(現在の山武市殿台)に、農業伊藤重左衛門家の末子として生まれた。

 父良作は、上総道学の流れをくむ、この地方でのすぐれた漢学者であり、同時にまた和歌にも通じていた。母なつは、伊藤家と同じく、武士を先祖とする三木家の出身らしく、気が強く、躾などには特にきびしい、激情型の女であったという。

 左千夫は幼名を幸次郎というが、末子でもあった関係で、このきびしい母親には格別の愛情をもって育まれ、自由に、伸び伸びとその幼年時代を過ごした。

 左千夫50年の生涯の中で、最も幸せな時代であった、ということができる。

歌人伊藤左千夫

牛飼がうたよむ時に世の中のあらたしき歌おほいに起る


 伊藤左千夫が初めて正岡子規の謦咳に接し、その短歌革新運動に共鳴して詠んだ代表作である。偉大な師を得て、短歌の世界に生き甲斐を見いだした左千夫の気迫が感じられる。歌人としての本格的な活動はこの時に始まるが、この時すでに37歳であった。

 彼は享年50歳で没しているから歌人としての寿命は僅か13年にすぎない。この短い期間に「馬酔木」を経て「アララギ」を創始し、門下から赤彦、茂吉、千樫、憲吉、文明などの大歌人を輩出させた。自らは子規の写生歌を超えて全精神を傾倒した「生の叫び」を基調とする万葉調の写生歌を達成した。さらに、「短歌連作論」をはじめ「言語のひびき」「言語の声化」から「叫び」に至る彼独特の歌論を確立した。

 彼は又短歌の他に多くの小説、随筆、写生文などを書いている。この間「新仏教」の同人となって宗教と哲学の世界に遊び、茶人としても玄人の域に達している。僅か13年間に残した文学的業績は超人的なものといわねばならない。


伊藤左千夫を訪ねる

歴史民俗資料館

歴史民俗資料館

資料館には、郷土の民俗・考古学資料の他「野菊の 墓」初版本や自筆の原稿など、伊藤左千夫に関する多くの資料が展示されています。

お問合せ /【電話番号】0475-82-2842

 

伊藤左千夫の生家

伊藤左千夫の生家

山武市歴史民俗資料館の裏手にあり、左千夫が少年時代をすごした藁葺きの母屋や東京茅場町時代の茶室(唯真閣)も移築されています。

(お問合せ:歴史民俗資料館) 

唯真閣

 左千夫は文学の傍ら終生茶の湯を愛好した。彼が和歌の道に入ったのは明治26年30歳のときであるが、たまたま茶道の手ほどきを受けていた同業者の伊藤並根という人が和歌もよくしたからである。

 子規から「茶博士」と呼ばれたほどで、本所茅場町の左千夫の自宅を「無一塵庵」と名付けた。自他共に茶人をもって任じ一戸建の茶室を持つことを念願していた。そして同郷の歌友蕨真の協力を得て郷里の山武杉を用いて明治43年5月に待望の茶室が本所茅場町の左千夫の邸内に完成し「唯真閣」と名付けた。左千夫の死後、甥の伊藤芬氏の手で亀戸の芬氏宅に移築され後に昭和16年成東町の生家に移され現在に至る。唯真閣は歌人であると共に茶人であった左千夫の風姿を後世に伝える貴重な建物である。

(お問合せ:歴史民俗資料館

伊藤左千夫記念公園

伊藤左千夫記念公園

山武市役所のすぐ脇にあるこの公園には、野菊の歌、アララギ派八歌人の歌碑や「野菊の墓」の政夫と民子の像があります。

(お問合せ:都市建設部都市整備課

伊藤左千夫の歌碑

伊藤左千夫の歌碑

本須賀の海岸に建てられた歌碑。
「天地の四方の寄合を垣にせる九十九里の浜に玉拾ひ居り」と書かれています。

問い合わせ先

このページに関するお問い合わせは商工観光課 観光係です。

市役所本館2階 〒289-1392 千葉県山武市殿台296番地

電話番号:0475-80-1202 ファックス番号:0475-82-2107(代)

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