大高善兵衛の墓

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年3月1日

大高善兵衛の墓 

 大高善兵衛は、文政5年(1822年)9月2日、代々善兵衛を襲名する大高家の総本家、秀明(東園)の次男として生まれた。
 幕末期の大高家は、富田村他11ヶ村組合村の寄場名主であり、酒造業、山林業を営む九十九里地方きっての資産家であった。

 天保14年(1843年)、22歳にして名主職を継ぐ。名は秀知、道齋と号した。
 当時、凶作・貧困による「間引き」の悪習が蔓延していた。善兵衛はこの悪弊を改めるために、幕府に間引き禁止・小児教育の嘆願書を再三にわたって提出、自らは私財を投じて捨て子の教育に専念し、農民に対しては間引き撲滅を説いて止まなかった。
 慶応3年(1867年)46歳、総本家を弟信蔵に譲り「隠宅」を構えて保蔵と改名。
 隠居後も、間引きの原因は、母乳不足と貧困にあると考え、世に先駆けて乳牛の研究に着手、望意谷に「常磐牧」を作って牧畜業を興し、養育のための牛乳を確保した。嬰児救済事業に専念して、生涯に養育した孤児の数は百数十名に及ぶとも伝えられ、社会福祉事業の先駆者として高い評価を受けている。
 他に、貧困解消のための殖産興業にも意を用い、植林、製茶、養蚕、漆、イチジクの栽培等の新事業にも取り組み、天然痘・コレラ等の伝染病予防の衛生事業にも貢献している。
 明治27年(1894年)3月12日没。享年73歳であった。

所在地 : 山武市富田
指定日 : 1992年1月24日