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安井理民さんをもっと詳しく


印刷用ページを表示する 掲載日:2013年1月9日
 

SLに乗ってるサンムシくんのイメージ 安井理民さんがひいおじいちゃんになる、子孫の安井哲(やすいさとし)さんから安井理民さんについてくわしいお話を教えていただきました。

安井理民と総武本線開通のあらまし

 千葉県の成東は、江戸時代中期、上総道学(かずさどうがく)がはじまった所として知られています。誰もおこなったことがない行動を起こして世に役立てるのが魁(さきがけ)の心です。
 安政(あんせい)6年(1859)3月3日、成東下町に生まれた安井理民は、この道学を実行した人物の1人です。当時の安井家は結城藩(ゆうきはん)水野氏(1万8千石の大名)の休泊所を営む家柄(いえがら)でした。その建物は通称(つうしょう)を中宿(なかじゅく)と呼ばれていました。当主の理民は19才にして戸長(こちょう *1)に任(にん)じて上総8千石は16ヶ村の政務にかんよしていました。
 明治のころの千葉県の物資の輸送はもっぱら水運が主流でした。当時には、この時間の短縮が千葉県の向上発展に不可欠であると考えた理民は、明治19年(1886)に27才の若さで鉄道の計画に着手(ちゃくしゅ)します。水運では銚子から江戸(東京)までに14時間を要したからです。これが鉄道計画の目的です。
 幼少の理民は半蔵(はんぞう)を称していましたが、鉄道敷設(てつどうふせつ)の事業にあたり、名を民(たみ)を理(おさ)めるに改めます。理(り)は治(はる)に通じることから、理民と書いて「はるたみ」と名乗ります。
 若干27才にして150有余名の株主を募(つの)り、合計株数は1万6千株を数える資金を集め、初めに総州(そうしゅう)鉄道を立ちあげて許可申請の実行に入ります。
 千葉県知事に届け出ますが水運の大株主である知事は却下したばかりか反対運動を起こします。理民はそうした権力の困難を乗りこえたのちに紆余曲折(うよきょくせつ *2)を経て、時の黒田清隆(くろだきよたか)首相に上申します。
 そしてついに総州(千葉県)から武州(東京)を鉄路で結ぶ総武鉄道が許可されます。これが今の総武本線の前身です。
 しかし明治22年(1889)に許可はおりましたが、全身全霊(ぜんしんぜんれい *3)を傾注(けいちゅう *4)させていた理民は、全財産を失ったあげくのはてに病にたおれて、鉄道の開通を半年前にして、明治27年(1894)2月16日に36才にして帰天(きてん)します。
 のちに、この遺志(いし)は同志の手にゆだねられて明治27年(1894)7月20日、ついに市川から佐倉間が開通し、県下にはじめて汽車が走りました。明治30年(1897)5月1日には佐倉と成東間が開通し、同年6月1日には成東と銚子間が開通したのです。本所(ほんじょ *5)から銚子までの全線に要した汽車の時間は4時間でありました。当時に千葉県の物資を東京まで輸送していた水運とはかなりの短縮になりました。
 この総武本線がもたらした利便性は計りしれませんが、ちょうど今年(*6)で115年目を迎えたのはありがたいことです。
 成東駅には理民の功績をたたえる魁の碑(さきがけのひ)がたてられています。


サンムシくん*1 今の市長にあたります

*2 事情が込み入っていて解決に手間どること

*3 その人の持っているものすべて

*4 精神や力を一つのことに集中すること

*5 今の錦糸町のあたりの地名

*6 2012年

(むずかしい漢字をひらがなにするなど一部修正してあります)

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